-英語版は'A Reflection on 'Hagakure''のタイトルにて掲載中-

マウンテンバイクを注文しました。
都市封鎖下の外出制限が続いている折、日曜大工仕事や家庭内の用事が山積みになってもいたので自転車が届くまでの間は家に籠もっている予定。
必然的に幼い息子とも狭い空間で四六時中一緒に過ごすことになります。
そのせいか、昔読んだ「葉隠」の中の、子供の教育について書かれた一節がふと頭に浮かびました。

武士の子供は育て様あるべき事なり。先づ幼稚の時より勇気をすすめ、假初にもおどし、だます事などあるまじく候。 幼少の時にても臆病気これあるは一生の疵なり。親々不覚にして、雷鳴のときもおぢ気をつけ。くらがりなどには参らざる様に仕なし、泣き止ますべきとて、おそろしがる事などを申し聞かせ候は不覚の事なり。又幼少にて強く叱り候へば、入気になるなり。又わるぐせ染み入りてよりは意見しても直らぬなり。物言ひ、礼儀など、そろそろと気を付けさせ、欲義など知らざる様に、その外育て様にて、大体の生れつきならば、よくなるべし。 又女夫仲悪しき者の子は不孝なる由、尤もの事なり。鳥獣さへ生れ落ちてより、見馴れ聞き馴るる事に移るものなり。 又母親愚にして、父子仲悪しくなる事あり。母親は何のわけもなく子を愛し、父親意見すれば子の贔屓をし、子と一味するゆえ、その子は父に不和になるなり。女の浅ましき心にて、行末を頼みて、子と一味すると見えたり。 

現代語訳(意訳)
武士の子供を育てるためには先ず幼い頃から勇気をすすめ、決して脅したり騙したりしてはならない。幼児期と言えども臆病の風があるのは一生の瑕(きず)である。親たちは不覚にも雷鳴に怯えさせたり暗がりへ行かせたりしないようにするべきだ。また泣き止ませようとしてわざわざ怖がるようなことを言って聞かせるなど無知の極みである。 幼少の時に強く叱れば内気になってしまう。また、悪い癖が身に染みないようにしなければならない。一度悪癖が染みついてしまうと後で意見をしても直らない。口の利き方や礼儀なども徐々に気をつけさせ欲を起こさせないようにすること。その外育て方次第で普通の生まれつきならば良い武士に育つものである。 また夫婦仲の悪い者の子供は不孝者になるといわれるが、それはもっともなことである。鳥獣でさえ生まれおちて以来の見たり聞いたりすることに染まって育つものである。 さらに母親の愚かさから父と子の仲が悪くなることがある。母親が盲目的に子供を溺愛するので父親が意見をすると、母は子供の肩を持って子供に味方してしまうためこれが父と子の不和の原因になる。女の浅知恵により、また老後を心配して今のうちに同盟を結んでおこうという打算から子供に味方するものらしい。 

サムライの子弟は皆幼い頃から鉄拳制裁のスパルタ教育を受けて育てられていたと思いこんでいた私にとって衝撃の内容でした。
幼い子供に心的トラウマを与えると人格形成に不可逆性の悪影響を与えてしまうこと。幼少時の躾が最も大切であること。夫婦親子関係の子供への精神的作用などなど...
後半に綴られる女性観はさて置き、
最新の児童心理学が説くところがこの江戸中期の片田舎のひとりの武士によって既に詳らかに語られていることには驚かされます。

葉隠は青春時代の私が傾倒した書物のひとつです。他の多くの人と同じく始めは勇猛果敢なサムライのバイブル、という先入観から興味を持ったわけですが、実際に読んでみるとそれはステレオタイプとはかけ離れたものでした。当初は期待していた内容との齟齬に困惑し、次にマッチョな箇所の拾い読みと恣意的解釈に耽溺し、その後解説書などを読み自身も年齢を重ねたことで若い頃には理解に苦しんだ部分も興味深く感じられるようにと、受け取り方が変遷してゆきました。

「葉隠」というと
1.緻密に構成された・系統だった・一貫性のある武士道の聖典
2.その成立以来長い間、広く武士の間で読まれていた・或いは読まれるべきであった古典
3.著者は百戦錬磨のツワモノ
という印象が一般的ではないでしょうか。 

ところが実際は全ての項目についてそういう先入観とは真逆の書なのです。 

1.について。
葉隠は江戸中期の佐賀鍋島藩士・山本常朝という老人の話を田代陣基という人が6,7年に渡ってランダムに聞き書きをしたもの。隠居の年寄りの昔語り時々お説教といった趣です。同じ話題についてもその時々によって全く別の見解が示されていたりして、一見すると矛盾に満ちています。 

2.について。
海外に対しての鎖国のみならず各藩間で人の出入りも物流も厳しく統制されていた封建時代、最果て佐賀の一介の隠居の徒然話の聞き書きが広く全国の武士の間に浸透していたとは考え難い。もとより近世以前の歴史学や倫理学は中国の古典の勉強が中心で、日本の書から学ぶという概念すらだいぶ希薄であったと想像されます。それに常朝は元々葉隠口伝の際、聞き手に対し内容を覚えたらメモは焼き捨てるように指示していたぐらいで、後にそれが日本文学の古典のひとつになろうとは夢想だにしていませんでした。これが発掘され広く世に知られるところとなるのは遥か後年日本の近代化以後のことで、それは軍国主義者によって戦前国民教育に利用されました。

3.について。
常朝が生まれたときは既に江戸開幕から60年ほど経っており、彼は戦国乱世も遥か昔となった太平の世を60歳まで生きました。武士階級が平和な社会において支配階層として高度に官僚化されて行く中で、既に武士道は実戦を生き抜くための指南から哲学的なものに変わっていました。常朝は父親が70歳の時の子で、生まれつき虚弱体質だったそうです。命のやり取りはおろかおそらく一生涯喧嘩ひとつしたこともなかったでしょう。

葉隠は衆道(同性愛)についても多く書かれています。
頼鈺菁氏の考察によれば
常朝は9歳の時に若き藩主鍋島光茂の御小僧から御小姓役を勤めるようになったことから主君 に対する恋愛感情を抱くようになったと考えられます。このような気持ちから彼は主君を心にかける感情を一生持ち続けたらしく、お殿様の側にいられない寂しさ、そして恋慕の情を伝えることができない苦しさを「忍恋」という言葉で表現しています。

光茂の病没に当たっては追腹はご法度であったため殉死すること叶わず、常朝は出家して隠遁生活を送ります。その隠居所を後に光茂の内室が亡夫のための供養所としまた自らの墓所と定めたため、常朝は転居を余儀なくされます。そんな中でも彼は光茂の子で次代藩主宗茂のために帝王学を説いた「乍恐書置之覚」 (おそれながらかきおきのおぼえ)を執筆し上呈しています。正に究極の「忍ぶ恋」です。

戦争のない時代に弱い体に生まれつき、
逞しい肉体と精神、戦場での華々しい活躍と栄光の死を夢見ながら実際には表向き平穏な生涯を老いて畳の上で閉じる... 
君主に抱く叶わぬ恋、同性愛を生涯を通じて哲学的な忠誠心に昇華させたそのこころの働き... 
私が当初イメージした歴戦の武士像とは全く異なる人生。
とても複雑な人物です。 

人生は誰にとってもそれぞれ複雑怪奇に移ろいゆくものゆえに、年を重ねるごとに葉隠の解釈も変わってゆく...それがこの変幻自在の奇書を読む面白さのひとつなのかも知れません。 

参考文献及びインスパイアされた書物・映像: 
・「葉隠」山本常朝・田代陣基著 
'Hagakure' William Scot Wilson訳 
乍恐書置之覚」 (おそれながらかきおきのおぼえ)山本常朝著
・「武士道」新渡戸稲造著
'Bushido: The Soul of Japan' 新渡戸稲造著
・「「武士道」改題 ーノーブレス・オブリージュとはー」李登輝著
・「葉隠入門」三島由紀夫著 
・「死ぬことと見つけたり」隆慶一郎著 
・「葉隠における武士の衆道と忠義 ー「命を捨てる」ことを中心にー」頼 鈺菁著 
・「山本常朝」ウィキペディア
・'Mishima is interviewed in English on a range of subjects on YouTube, from a 1980s BBC documentary' (三島由紀夫の英語によるインタビュー イギリスBBC制作 YouTube動画) 
・'Mishima is interviewed in English about Japanese nationalism on YouTube from Canadian Television' (三島由紀夫の英語によるインタビュー カナダの放送局制作 YouTube動画)



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桃から生まれて...
(ロンドンにて著者撮影)

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...桜(はな)と散る。
(ロンドンにて著者撮影)

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ハマースミスの日本庭園
(ロンドンにて著者撮影)