-English version has been posted separately-
-英語版は「How I became a Minimalist PartⅠ」のタイトルにて別個に掲載中-

はじめに

言わずもがな
今回のタイトルは内村鑑三の有名な自伝のパロディです。

気がつけば
ミニマリストなっていました。
とは言ってもそれは物欲が幾分軽減したように感じるほどであって、思想や情念に対する執着はいまだ甚だしいのですが。

思い起こせば
若い頃の私はモノに対しても想念に対しても執着の強い人間でした ー 愛国心、郷土愛、家族愛、自己愛、家、収集癖…。


・転機

そんな自分にとって社会人になり自分のパソコンを所有しインターネットへの自由なアクセスが可能になったことは、モノへの執着が希薄になる、大きな転機になりました。本やCDを物質的に所有する必要がなくなり、読書や鑑賞の感想はブログやSNS上で記録できるばかりか世界と共有できるようになったのです。

また、移ろいゆく人間関係と国を跨いだ20回を越える引っ越しを経て、モノや土地、人間関係への執着が更に薄まってゆきました。明日をも知れない生活の中では

1,なるべくモノを持たない
2,家財家具はなるべく安価な処分の簡単なものを選ぶ
3,引っ越しの際家財家具は出来るだけ売却、処分する
4,土地や住居、人間関係に執着しない

というライフスタイルが自然に身に付いていったようです。



・西洋思想への感化ー無神論と科学至上主義


そういう人間にとって仏教(小乗)、ヴィパッサナ瞑想、ミニマリズムへと、周波数が合わさっていったのは自然な成り行きだったかも知れません。

おかしなことに私の場合、東洋思想やシャマニズム(後述)に興味をもつきっかけは西洋人と西洋思想によってもたらされたのです。

中でも

ジョージ・カーリン(コメディアン)
リッキー・ジャベイス(コメディアン)
ジョー・ローガン(コメディアン、ポッドキャスト・ホスト)
サム・ハリス(神経科学者、哲学者、ポッドキャスト・ホスト)
リチャード・ドーキンス(進化生物学者、動物行動学者)

この5人は、私の人生観を大きく変えました。
どのぐらいの傾倒振りであったかと申しますと……
カーリンとジャベイスはそのコメディ・アルバムは全て暗唱できるほど聴き込み、後者の映像作品・ポッドキャストは全て視聴したほど、サム・ハリスもポッドキャストは現在に至るまで全回聴き、リチャード・ドーキンスとともにYouTubeにアップされている限りの講演や討論はほとんど全て視聴しているほどでした。


・仏教

彼らによって無神論と科学至上主義の洗礼を浴びたことにより解放された私の精神は、逆説的に東洋思想やシャマニズムへの扉を開くことになりました。

個人的にその流れに矛盾を感じませんでした ー 迷信や予断憶測に囚われずありのままを観察するのが科学的態度であるのなら、適正に行われる瞑想やサイケデリック体験は、正に純粋な観察に他ならないからです。

本来の仏教(=テーラワーダ仏教=南伝仏教=上座部仏教。日本ではかつては不当にも「小乗」仏教と呼ばれていましたが、スリランカやミャンマー、タイ等では主要「宗教」)に於いては瞑想による解脱(悟り)が全てであると言っても過言ではありません。一般に「宗教」と呼ばれているものの、例えばスリランカのテーラワーダ教長老スマナサーラ氏は「仏教は意識の観察を行う科学であり、宗教ではない。したがって如何なる宗教信者も仏教を実践できる。」と明言しています。
宗教とは神や神話を信じることを前提としています。教祖や神話の「実在」」を疑問視した瞬間すべてが崩壊します。仏教にもそういう迷信的側面はもちろんあり、私はそういった仏教の宗教的な面は全く信じていません。当然、生身の人・ブッダを神格化することにも興味はなく、それどころか彼が実在の人間であったか否かさえ、私にはどうでもよいことです。仏教が直にブッダの教えであったのか、それとも幾多の瞑想者たちの積年の知恵の集大成が「ブッダの教え」という名のもとに伝わっているのか、私にはわかりませんし、それほど興味もありません。ただ、意識の観察に関する深い知識と精巧な技術の集大成が、「仏教」「瞑想」という名前をもって人類への大きな遺産として存在していることは事実です。
ですから、無神論者たる私が哲学、科学としての仏教を実践していたとしても矛盾は感じません。
ちなみに私の意味するところの無神論は、正確には不可知論です。聖書やコーラン、日本書紀など特定の神話の文字通りの世界観は荒唐無稽で信じるにたる理由が見い出せません。しかし実際に深い瞑想状態、或は極限のストレスに晒された人間がしばしば経験する神秘・宗教的体験の中に、彼らが共通して認識する一定の「現象」が存在する以上、これを先入観抜きに克明に観察して(時に訓練や実験を通して)何事かの真理を引き出す、ということは科学的態度そのものではないでしょうか。

話を仏教に戻します。
日本を含む東アジア世界に於いて仏教は土俗習俗や先祖信仰と習合してしまっており、肝心の解脱と瞑想については忘れ去られているのが実態だと思います。もちろん、禅宗や密教はありますが、個人的に前者の座禅や後者の儀式は瞑想としては不完全だと思います ー 座禅は「無」になることに「執着」「強要」が伴い(坊主が"お前は「雑念」を持っている!"と決めつけて棒で殴ってきます💦)、むしろ「無」から遠ざかってしまい勝ちであるという矛盾があり、密教の呪術的儀式(加持祈祷)もまた独自の神話的世界観を前提とするもので、純粋な観察としての瞑想とは相反するものと言わざるを得ません。

これに対して小乗仏教で行われるヴィパッサナ瞑想(西洋ではしばしば「マインドフルネス」とも呼ばれる)ではひたすら、観察のみを行います。
その対象は呼吸、視覚聴覚嗅覚味覚触覚で感じるの全ての刺激、その時々浮かんでは消えるあらゆる感情と想念…それらひとつひとつをありのままに、わき上がっては消えるまで、一切の自己判断を加えずただ克明に観察するのです。この「超高感度カメラ」が捉える映像には「実況中継」(現在)があるのみですー「巻き戻し」(過去)も「早送り」(未来)もありません。ただただ、意識のレンズで「今」を観察し続けるのです。
 
また、解脱(悟り=あらゆる煩悩・執着からの解放)という観点からみてみてみますと
「誰が」観ているのかという主体の境界は溶けてゆき、「観察すること」そのものになってきます。更に「観察するもの」と「観察されされるもの」が一体に感じられる、言葉では表現できない境地があります。
個人的体験ですが ー 自分は観ていると同時にその観られている対象でもあるという実感、また視覚と触覚が完全に一体になったような感覚  ー 「肉感的視覚」というとそれに近いでしょうか ー その形容しがたい感覚を以て、100万年をわずかの5分ほどの間に過ごしたがごとき凝縮された体験を持ちました。 

この主体/客体の境界線・あらゆる感覚の境界線が融解する境地はカール・ユングの「集合的無意識」、臨死体験、神秘・宗教的体験(例えば預言者たちの神・精霊との邂逅・融合の体験、エイリアンによる誘拐体験)やサイケデリック・トリップで多くの人が共通して「観る」「ヴィジョン」のテーマとつながってきます。

チェコの精神医学者でトランスパーソナル心理学の創始者スタニスラフ・グロフはLSDトリップと臨死体験との類似性、
ニュー・メキシコ大学のリック・ストラスマン教授はDMTトリップと神秘体験や臨死体験との類似性をそれぞれ論じています。
後者の「DMT : Spiritual Molecule」はその研究の集大成で、グロフの著書とともに実に興味深いものです。手に取られてみてはいかがでしょうか。

・カウンターカルチャー、サイケデリックスと仏教、シャーマニズム

西洋に於ける仏教の普及は60年代のヒッピー文化・カウンターカルチャーを抜きには語れません。西洋文明の歪み ー 帝国主義、白人至上主義(人種差別)、アブラハムの宗教(=キリスト教ユダヤ教イスラム教の総称)の行き詰まりが大きく原因する ー が2つの大戦に続く東西冷戦、ベトナム戦争に至って限界に達し、若者の間で旧価値観の破壊と精神の開放が叫ばれた時代。それに先立って20世紀初めから中ごろにかけてMDMAやLSDなどのサイケデリック物質が発見され、その合成による大量生産が可能になりました。新旧の価値観の破壊と想像が切に求められた時代、冒険心あふれる若者たちが瞑想や東洋思想、仏教、サイケデリックスによる全く新しい精神世界への旅を希求したのは当然の帰結かも知れません。
瞑想や精神修練などとサイケデリック・トリップとの決定的な違いは、前者が一生をかけての修行を通しても「境地」に達することができる保証がないのに対し、後者は程度の差はあれ必ず誰でも変性意識状態を体験できるということです。
西洋に於ける仏教の創成期の指導者、古老たちの多くが若かりしあの時代、サイケデリック・トリップによって到達した「境地」を、瞑想や仏教の実践によって再現しようとしたのです。
不幸なことに無知な大衆によるサイケデリックスの無謀な乱用は世情騒乱を招き、ついにはマンソン・ファミリー、ヘルズ・エンジェルスなどの反社会的勢力による凶悪事件に発展 ー これに対して米国をはじめ西洋社会とその為政者は短絡的な解決方法としてサイケデリックスの使用・所持を、学術機関での研究目的も含め、完全に違法化しました。
一方、サイケデリックスは歴史的に精神病や心的トラウマ、アルコールや薬物依存の治療効果が期待され医師や研究者の管理のもと、実験、治療に使用され効果を上げてきた実績があります。
また古来から南米の国々ではサイケデリック物質DMTを含む「聖なる植物」チャクルーナ等を煮出して作るお茶「アヤワスカ」を使った儀式がシャーマンの采配のもとに行われています。心に闇、傷を抱えたもの、意識の深層の探求者たちがこのお茶を飲むことで「向こう側」への旅をし、その体験をシャーマンと共有し(シャーマンも同じく儀式でアヤワスカを飲みます)、それぞれの観た「ヴィジョン」についての解釈とアドバイスを授かります。中米の国々に於いてもサボテン「サン・ペドロ」やシロシビン含有きのこを使用する類似の儀式があります。こうした有史以前からの伝統は今でも大切に受け継がれ、近年は西洋諸国からの参加者も急増し、世界に広く知られるようになりました。

このような歴史的経緯からむしろ西洋のほうが東アジア世界より多くの人々に本来の仏教やヴィパッサナ瞑想が正統に受け継がれている印象を受けます。況んやシャーマニズムに於いてをや。

こう考えますと、古今東西にわたる私の魂の遍歴も、一つの必然であったのかも知れません。


追記:書いているうちに止まらなくなってしまいました。長くなりましたので英語版は個別のエントリー"How I became a Minimalist Part 1"として掲載しますので、そちらをご覧下さい。


For the English version, see "How I became a Minimalist Part 1" ...



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涅槃の夢 (筆者撮影:山形県・今熊山にて)